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やすこママのパワフル保健室  全国誌 月間「学校給食」連載

文責 ・ 敦賀市立気比中学校 養護教諭・奥田康子

やすこママのパワフル保健室85  思春期・・・輝くとき№41(2011.10)

「覚えていること」

記憶には脳の海馬というところが関与しているらしいのですが、そのメカニズムは大変複雑かつ奇妙に感じられます。
 幼少期の記憶をたどってみると、覚えていることはごく少なく、こんなに長く生きているのに・・・と不思議な気がします。幼いころを思い返すと、よほどインパクトのある事象か、ことあるたびに聞かされてきた思い出話くらいしか覚えてはいないものです。時が経てば、ほとんどの記憶は消えてなくなってしまうものですが、愛されたことや、抱っこされた時の柔らかく温かな感覚、なつかしい匂いや、味、満たされた思いは、潜在する記憶として確実に心に刻まれるものなのでしょう。
 しかし、刻まれる記憶は心を豊かにするものだけではありません。人格や存在までもを否定されるような言葉、罵倒され暴言を浴びせかけられたこと、殴られたり蹴られたり暴力を受け続けたことなど、一生消えない傷として残ることがあります。育ちの中でインプットされた記憶が負の連鎖を招き、自分が親となったときの虐待に移行するケースもあるようです。
 いずれにしても、記憶として心に沈む事が、自分自身ですらも理解しがたく、制御不可能な行動に作用することがあるということなのでしょう。このような不可思議な現象が脳科学の分野で解明されてきている以上、この先の世代の子育てに活かすべきなのではないでしょうか。

「むずかしく考えないで!」

記憶が心の傷として次の世代にまで影響を与えるなどと脅かされると、親たちは子育てに不安を覚えます。けれども、「叱ってもいいのだろうか」「こんな叱り方は間違っているんじゃないだろうか」と腫れ物にさわるようなおすおずとした子育てをしていたのでは、躾さえもできなくなってしまいます。
 子どもの小さな失敗を無駄にせず、同じ失敗を繰り返さないように支援すること。他人の心や体に危害を及ぼすようなことは断じて許されないことを徹底して教えること。少し大きくなったら、人に出来得る限り迷惑をかけることのないような生き方を心がけなければならないことくらいは、しっかりと伝えたいものです。
 子育てはきれい事では済まされません。親の感情が先に立ち、頭から叱りつけるようなこともあるはずです。後できちんと「なぜ叱ったのか」「何をどうしなくてはけなかったのか」と「それが何故なのか」 を子どもに分かりやすく伝えることが大事なのです。幼くても反抗期でも思春期に入ってからも、伝え方を変えるだけのことです。
 子どもの体と心に深き愛を刻むことと、大筋を逸れることのない「愛の伝わる制止と軌道修正」が、記憶として残るのです。

やすこママのパワフル保健室84  思春期・・・輝くとき№40(2011.09)

「地球温暖化?」

今年の暑さといったら尋常ではなく、全国では熱中症で救急搬送される方の数が何千人もになり、亡くなる方も出ています。7月始めの一週間だけを見ても、搬送数は昨年のその時期の5倍の4520人、うち8人が亡くなっているとのことです。    (総務省消防局調査 速報値)
 確かに梅雨明けも早く、何やら季節がずれてきているように感じます。5月の半ば過ぎまでは、冬を思わせるような寒い日があったかと思えば、急に夏日が続き、梅雨も大した雨もなく過ぎ、そしてこの猛暑。1年のうち冬と夏しか無くなってしまうのではないかと思うような変な気候です。
 私が子どもの頃は、夏休みに入っても梅雨が明けず、気温が30℃を越えないと海へ泳ぎに行けないと、曇り空を見上げて歯痒い思いをしたものです。冷夏といわれた年もあり、梅の土用干し(鰻を食べる土用の丑の日あたりに3日ほど天日干しをすること)もままならないことがありました。
 9月に入ると秋風が吹き、2日の宵宮から始まる敦賀祭りの頃には、ゆく夏を惜しみながらも、浴衣で秋の風情を楽しんだことを覚えています。けれど、きっと今年の9月は、真夏のように暑いのでしょうね。 「地球温暖化」人間が招いた事とはいえ、この先地球は日本はどうなっていくのでしょうか。

「熱中症対策」

学校でも、5月末頃から30度を越える日が増え、生徒たちも汗を流しながら学校生活を送っています。あまりの暑さに、夏の補充のためにと設置されたエアコンを作動させずにはいられない日もあります。
 体育や部活動など、体を動かすときには、直前にコップ1、2杯の水分補給をさせます。夏休みの部活動には、塩分と糖分が入ったスポーツドリンクを水で2倍に薄めたものが効果的です。それでも甘いので、水やお茶と併用します。15分から30分毎に1度、汗の出かたを見ながらの強制引水が必要です。汗を多くかく子ほど水分を必要とします。標準よりも体重の重い子は、特に気をつけなくてはなりません。みんなと同じノルマを与えては体に熱がこもって倒れてしまうこともあるからです。
 先日、全校生徒に熱中症予防の話をしました。熱中症の症状、水分のとり方、対処の仕方、体に熱がこもったときには、霧吹きで水道の水を素肌に噴射し、タオルでマッサージしながら団扇であおぐことを、体が冷えるまで続けるようにと教えました。すべての部活動のチームに、いざというときにすぐ対処できるようにと、霧吹き・岩塩・大きな団扇・使用方法を書いた保健だよりを入れた熱中症グッズバックを用意しました。熱中症は無知と無理が招くといわれます。自分の状態に敏感になることです。

やすこママのパワフル保健室83  思春期・・・輝くとき№39(2011.08)

「便利な世の中」

日本の技術は昔から世界の先駆けと言われてきました。新たな技術を開発し、「こんなものがあったらいいのにな。」という消費者のニーズに応え、改良に改良を重ねて新製品を生み出してきました。それは、言わずもがな不自由や不便から発せられた発想でありました。技術革新は今、便利の域を超えて「もっとスピーディーに、もっとクリアにもっとおもしろく。」と進化の一途をたどっています。
 IT業界などは、その最先端なのでしょう。コンピュータ、インターネット、昔の人が見たらびっくり仰天するであろう携帯電話。地図を持たなくても一瞬にしてアクセスでき、今どこにいるのかを知ることができたり、離れている人が、あたかも側にいるかのように文字を使って会話ができてしまうのですから。なんとも素敵な世の中になったものです。
 大人たちにとっては本当にありがたい進歩なのですが、子どもたちにとってはどうなのでしょうか。年端もいかない子が大人よりも上手に携帯電話を使いこなしているのを見ると、世の中は大きな間違いを起こしてきているように感じるのです。便利なものを求め続けることと、そこから来る弊害についての対処を、人類は平行して考えていかなければならないのですが、既に遅しといった感じがしています。

「子どもたちは今」

携帯電話の機能の3分の1も使えていない私からすると、子どもたちがまるで手品師に見えます。私などは卒業生たちが遊びに来たときに、使い方を指南してもらっている始末です。
 携帯電話が子どもに普及する理由のひとつとして親側からは、危険時の緊急連絡や、親への迎えを頼むためといったことがあげられます。しかし実際にはどうでしょう。通信の手段というには、はなはだ申し訳のないような短い言葉が文字にされて飛び交っています。スピーディーを売りにするメールで、心をつなげたりわかり合ったりすることは、子どもたちにとって無理に等しいのではないでしょうか。
一字一句に心を込めて気持ちを伝えるために書いた手紙が、メールという手段に取って代わっただけではないのです。当然のごとく、わかり合えないことから発するトラブルも増えてきます。それだけでは済まされません。ブログなどのネット回線を通じての落とし穴や、その恐ろしさについても、あまりに多種多様化している状況があり、学校では外部指導者を招いての指導も行っています。
新たな技術を使いこなすためには、使う側の知識理解の成長レベルや情報モラルへの意識、何より人としてのベースになる人間教育が必要なのではないでしょうか。

やすこママのパワフル保健室82  思春期・・・輝くとき№38(2011.07)

「からだとこころ」

 保健室は、ケガの手当てや病気の子の処置をするところといったイメージが大きいかもしれません。しかし、保健室に求められる機能やニーズも昔に比べ随分と変わってきています。子どもたちからの小さな不調の訴えを糸口に、丁寧にたどっていくと、そのほとんどに心の問題が浮上してきます。小学校では、母子分離不安などに起因することが多いのですが、思春期といわれるこの時期には、症状も、その要因と思われることも多様化してきます。生徒の単純な訴えだけを鵜呑みにして判断していたのでは、その陰に潜む重大な問題を見逃してしまいます。故に、この年齢の子どもたちとは、じっくりと向き合い、心の奥にある結び目をゆっくりと紐解くことが必要なのです。
 満たされなさが問題行動となって表に現れる場合もあれば、ずっと心に積もったもやもやが、逃避の形となって出ることもあります。心身症と思われる症状や、自分で自分の心や体を傷つけてしまう自傷行為、反社会的といわれる行動で、周りに苛立ちをぶつける子、逆に何も表現せず、黙って内にこもってしまうことだってあります。
 確かにこれらは親を困らせる事象ではありますが、育て方が悪かったのだなどと嘆いていても何の解決にもならないのです。子育てに失敗などありません。親だって、人間です。辛いこと、悲しいこと、さまざまな思いを経験しながら、それでもこの子らと向き合い、育ててきたじゃないですか。 今この時が、大人になるための大切な時期であるということを、親自身がしっかりと踏まえて子どもたちを観ていかなければならないのです。
行動をきちんと観察して、もし、精神発達の問題や広汎性発達障害が隠れているなどの心配がある場合には、ためらわず医療機関を受診させることが必要です。見たくないことから目を背けてしまっては、子どもの本心を理解することからどんどん遠ざかってしまいますから。

「どの子も宝」

  どんなに大人を手こずらせるように思えることも、その子にとっては今必要なハードルなのです。けれどそのハードルは、越えてこそ意味をなすのだと私は思います。だから親も教師もその子を支え関わるすべての人たちのベクトルが、同じ方を向いていなければならないのです。
 どの子も、奇跡としか言いようのない形で命をさずかった宝なのです。その宝の輝きが、やがて世の中を照らすことができるよう、困っている人の力になれるよう、育てる大人たちが、力を合わせて支えていかなければと思います。
 この子らが、人として、世の中に貢献できる日がくることを思い描きながら。

やすこママのパワフル保健室81  思春期・・・輝くとき№37(2011.06)

「食することへの意識」

春は、進学や就職で新たなスタートをきる季節です。前途洋々、確かに希望に満ちて、キラキラと輝く大海原への船出のイメージではあるのですが、さて、実際にはどうでしょう。
 親元を離れ、初めてひとり暮らしを始める人、学生から社会人と呼ばれるようになり、世間の荒波に揉まれながら自分のことなど二の次になっている人、職場の転勤や異動で慣れない環境の中、遮二無二頑張り、けれど空回りもしながら目の前の仕事に追われている人など、ともすると「自分」をなくしてしまいそうになることも・・・   そのストレスも去ることながら、生活自体が変容すると、一番に影響を受けるのが「食」です。実は、朝食の摂取が疎かになるのも生活のパターンが変わるこの時期なのです。忙しさにかまけて自分のための時間をさいてしまいがちになるからです。朝食の欠食のみならず、昼食のメニューも手軽なスパゲティーやラーメン、パンなどの炭水化物に偏り、当然のことながら栄養バランスも崩れてしまうようです。夕食もコンビニエンスストアーの利用が頻繁になり、自分のためだけに調理をするなど考えられないという人も多いことでしょう。
 しかし、こんな時期こそ「身体が資本」。まずは何をおいても三食きちんと食べることをお勧めします。

「食生活の甲斐性」

 ひとり暮らしが始まると、今までは据え膳、上げ膳が当たり前だった人も、自分で自分の食を賄うことになります。近頃びっくりするのは、いい年頃になってもお米すら洗ったことがない、ましてやカレーの作り方も知らない・・・そんな人が増えているということです。
 包丁を持ったのは小学校の高学年で年に何度かしかない調理実習のときだけ。そのときにも、野菜を洗う係だったなんてことになれば、包丁を握ったこともない人がいても不思議ではありません。
 普通子どもは、毎日の生活の中で親のしていることを見て育つわけですから、調理に関しても、知らず知らずのうちに「目から技を盗む」ことをしているはずなのです。取り立てて調理を教え込まなくても、親の手際や味つけを目と舌と匂いで感じ、知らぬ間に「おふくろの味」が出せるようになるものです。
 「食べる」ことは生活の基本中の基本です。自立に向かってスタートしようというのに、自分の食も賄えないのでは、その子が親になったときの子育てにも不安がつのります。親の責任において、せめてひとり立ちするまでには、自分の食くらいは自分で何とかできるように育てたいものです。キタキツネを見習って、少し早めの親側からの子離れが必要なのかもしれません。

やすこママのパワフル保健室80  思春期・・・輝くとき№36(2011.05)

「今、このとき」

東北地方太平洋沖地震と大津波により被災なさった多くの方に心よりのお見舞いを申し上げます。
 その朝、いつもどおりに「行ってきます。」と家を出た家族が、二度と会うことができなくなってしまい、思い出までもが跡形もなく消え去ってしまいました。悲しみに暮れる人々の姿と、「今まで自分がどんなに幸せだったかということに初めて気づきました。」と記者のインタビューに答えていた少女の言葉が耳に残っています。
 私たちは普段、自分の身に災害が降りかかることなど予想だにしていません。変わりのない毎日が当たり前であり、誰がこの惨事を予測できたでしょうか。側に居ることが当たり前だった家族を亡くし、ご遺体も見つからず、街までもが残骸と化し、皆悲しみと失望の中、呆然と立ちすくむ姿に心が痛みます。
 今このときは二度と帰らず、ここで見た風景はこれが最後かもしれない。そうであるならば、日々大事に生きなければと思います。ここまでの困難にぶつかっても決してくじけず、落ち着いて前向きに対処し、復興に向けて立ち上がろうとしている被災者のみなさんの姿に、日本人の底力を見ました。避難所での様子から、思いやりいたわり合う人の情やモラルの高さを感じ、人間としての崇高さに心を打たれました。

「トラウマを軽くするために」

 大きな災害が起こると、その後PTSD(心理的外傷後ストレス障害)を起こすことがあると言われています。家族を亡くしたり、目の前で津波に飲み込まれていく街を見れば、誰だって恐怖にさいなまれるでしょう。その後、時が経っても夢でうなされたり、ふとした瞬間にフラッシュバックし恐怖がよみがえるような感覚に陥ったりすることがあるでしょう。
 しかし私は、このトラウマというものが、できるだけ軽くなるように支援のあり方を配慮することが必要だと思っています。被災地に大勢のボランティアが向かい、大変な目にあわれた方たちを支援してくださいます。その時、「一緒にがんばろう!」「みんなの手ですばらしい街を!」という気力に満ちた言葉かけと熱い行動、「こんなことで負けてたまるか」という燃える思い、そんなプラスの支援が必ず被災者の方たちの心を明るく前向きにさせ、トラウマを軽くすることにつながるのだと思います。
 反対に、「かわいそうに」「こんなにひどい目にあうなんて」といった同情や見つからない家族のことを涙ながらに心配し、悲しみを助長させてしまうような寄り添い方をすれば、かえって心の傷を深くインプットさせてしまうように思うからです。
 災害にあわれた皆様の心身のご健康と1日も早い街の復興を切に祈ります。

やすこママのパワフル保健室79  思春期・・・輝くとき№35(2011.04)

「耐えるを学ぶ」

 梅のつぼみもふくらみ、春がもうすぐそこまで来ていることを感じます。
 この冬の雪は、過去の豪雪を思い出させる凄さで、県内では2メートルを超す市や町もありました。私の住む敦賀も80センチ近くの積雪があり、北陸自動車道と国道8号線がストップし、テレビのニュースや新聞を賑わすことになってしまいました。
 いつもの年には、水を含んだ重く湿った雪が降る北陸なのですが、今年はさらさらのパウダースノーがしんしんと降り、
 「まるで北海道に来たみたい」
とワクワクしていた私でしたが、小さな道の除雪が進まず、3日間、片道1時間かけて学校まで歩いて通いました。
 寒い土地で生まれ育つと、自然に耐えることをおぼえると、昔はそう言われていたようです。どんなに吹雪く日でも、学校に行かなければならず、親の手伝いで除雪や屋根雪降ろしをさせられました。けれど、近頃はどうでしょう。手伝いもせずに、ぬくぬくとゲームに興じる子どもが増えています。親たちも、寒いから、危ないから、カゼをひくといけないからと言って、子どもに雪かきをさせなくなってきています。
耐える力は、今やスキルなしには培えなくなってきているのかもしれません。
 耐えるを学ばせることが、家庭と学校のの大きな目標であると感じています。

「いやなことを我慢する力」

 学校では、辛いこと苦しいことも数多く経験します。自分の家のように勝手気ままは通用しないはずなのですが、公(おおやけ)と私を区別することや、外での我慢ができない中学生が目立つようになりました。
 昔なら、横着が過ぎれば集団から排除されかけ、その子自身がこれではいけないと気づくことで、自分の振る舞いを加減し、またみんなの中で我慢を身につけてうまくやっていくことができるようになるといった集団の自浄作用たるものが機能していたように思うのです。しかし今、周りの子どもたちに、そのための「意思表示」と「いじめ」との線引きを要求しても難しいのが現実でしょう。
「我慢」や「忍耐」、これは人間にとって最も難しく誰もが苦手とすることではないでしょうか。私も幼い頃から両親に「忍耐」が足りないと指摘されながら育ってきました。今では結構辛いことにも耐えていると自分では思っているのですが・・それでも まだまだ修行が足りないかもしれません。
 人には、嫌なことでも我慢し、腹が立つ、苦しい、辛いと思いながらでも、それを表に出して周りにあたり散らすのではなく、自分の心の中で、忍んで耐える力が必要です。子どもを将来社会へ出すために、必要な経験を意図的に課していかなくてはならない時代が来ているのかもしれません。

やすこママのパワフル保健室78  思春期・・・輝くとき№34(2011.03)

「生きるということ」

 文部科学省委託、県の性教育研究授業をということで、3年生で担任の先生とのティームティーチングによる「欲求・愛・生きる」ということをテーマにおいての授業を行いました。「欲求」については保健体育でも扱いますが、この分野では生理的欲求・社会的欲求について知らせ、欲求不満を感じたときの対処方法を理解させることなどがねらいとなります。そこで、今回は欲求や愛情が「生きるということ」につながることを生徒たちに投げかけてみたいと思い、学級活動として扱うことにしました。
 「好きな人がいますか?」という問いかけからはじまり、人が人を好きになったときの脳のメカニズムを解明していきます。導入では、ドーパミンの伝達経路から、視床下部がさらに快感を求めようとする現象が「欲求」であり、すべての感情は脳から生まれることを押さえました。その後の展開において、前時の授業で生徒に「欲求」と「愛」に対するイメージを好きなだけ出させたブレーンストーミングを、同じテーマで行った教師のものと比べました。生徒は、自分たちと大人の持つイメージや感じ方の違いに気づき、それが何故なのかを考えました。教員たちの愛に対するイメージから、愛を深め、絆を紡ぐことがとても難しいことであることを知りました。大人たちが人を思う経験の中で、温かな心や悲しみ苦しみなどを体験してきたことか、生きることにつながるイメージを持つようになったのであろうことを感じてくれたようです。
 欲求という人間本来の生きることに直結する脳も、人を思いやり欲求を制御し、よりよく生きようとする脳も、どちらも大切であり、そのバランスをとりながら人は生きていくということ、また、愛には様々な形があり、愛を育てるための仕組みも脳(前頭葉)が司るということも、彼らなりによく理解してくれました。
担任の先生の切ない体験談が子どもたちの心に浸みていきました。
 近年の若者たちの、あまりに軽く刹那的ともとれる性の動向を見るとき、私はこの子たちに今回の授業をとおして考えさせてみたかったのです。「生きる」=「自分の性を生きる」ことの重みを。そして愛を育み絆を紡ぎ、次の世代へと命をつなぐためには、脳を駆使しながらの努力が必要であることを。
授業の最後に、バックミュージックと朝日に輝く海の写真にのせて語りました。
 「人は人の中で生きていること、決してひとりでは生きられないこと、そして誰しもが温かな関係の中で生きていきたいと願っていることを。」
人も自分も大事にしながら、それぞれの愛を大切に育てていってほしいとの思いを込めて・・・・・

やすこママのパワフル保健室77  思春期・・・輝くとき№33(2011.02)

「訪れた街で」

旅をすると何かしら目にふれるものからの新たな発見があります。見知らぬ土地の山並みや、朝霧にむせぶ木々、それらの情景からかつて経験したことのない情感が湧き起こってきます。日本の四季を感じることを、ともすれば忘れてしまうような日々の忙しさの中であっても、ほっと一息つくやすらぎの時と心の余裕を持って生きなければと思います。
 生きいそぐことのなきように・・・
 親友を亡くして25年が過ぎました。突然死でした。冬に近づく頃でした。
 学校からの帰り道、車を運転しながら西の空を見上げると、いつか見たセピア色に染まった雲。そう彼女の逝った日の空と同じ。気づくとその日は彼女の命日でした。きっと彼女が自分を失いかけた私に知らせてくれたのでしょう。
この仕事を続けて、また、この年になって思うことがあります。自分という人間を見つめ、自分の心に静かに寄り添うことも必要なのだということ。自分の生きてきた道を振り返って、「結構がむしゃらに突っ走ってここまできたなあ。」と思い返しています。そして、「少し自分のことも大切に生きなければ」という穏やかな気持ちにさせてくれたセピアの空と、湯布院への旅で見た名峰、由布岳や紅に染まる木々の葉や石畳の坂道に感謝しています。

「一期一会」

 旅の二日目に博多で夕食をと、情報誌から選んで入った焼き鳥屋さんでのことです。カウンターに座って何を注文しようかと迷っていると、いきなり「どこからいらっしゃった?」と声が飛びます。びっくりして顔を上げると、その店のご主人です。歳のころは70過ぎでしょうか。しかし、お歳を感じさせないバイタリティーあふれる笑顔で一瞬にして場を和ませてくださいました。手品を見せてくださったり、ご自分の仕事に対する思い入れや、育てた弟子が、外国でチェーン店を経営して成功を収めていることなどを語り、それがまた、人を飽きさせないトークなのです。来店したすべての客に対して、出会えたことの喜びを分かち合おうとするその対応に感心しながら楽しい時を過ごさせていただきました。
    「一期一会」一生に一度しか会うことのないであろう人に、精一杯のおもてなしの心で向き合うご主人の姿勢から、私は多くの学びをしました。いきいきとご自分の仕事を楽しみながら働く姿に感動し、自分も負けてはいられないと思いました。
 一生のうちで、ほんの少しの時間しか共に過ごせない子どもたちと、できる限り心をつなげていきたい。それができる仕事であることを自分のしあわせとして大事に勤めなければと思います。

やすこママのパワフル保健室76  思春期・・・輝くとき№32(2011.01)

「やんちゃボーイ やんちゃガール」

思春期の子どもたちは、血の気が多いというのか、ちょっとしたことにもすぐに腹を立て、親に反抗してひどい物言いをしたり、壁と喧嘩して拳を痛めたりと、まあそれはそれは大変な時期にあります。「勉強しろ」と言われれば、「今しようと思っていたのにやる気が失せた」と腹を立て、お説教などされようものなら、「うるさい黙れ」と暴言を吐く。朝、親に叱られて登校しましたと顔に書いてある子もおり、休み時間になると私のところに不満をぶちまけに来る子も少なくありません。
 「ああ私にもこんなときがあったなあ」
 と昔を懐かしんでいます。
 この子たちを見ていて私は「なんてすばらしいあがきの時なのだろう」と思います。けっして人ごとだと傍観しているわけではありません。確かに親も子も嵐の中で安らがない毎日を送っている家庭も多いことでしょう。しかし、ここはまず大人たちが一歩譲って、この時期の子どもの成長過程や現代の生活に目を向けることが大事です。
 思春期にはホルモンの影響で男女ともにイライラや落ち込み、怒りや悲しみなど情緒が不安定になりやすく、喜怒哀楽も激しくなるようです。また、体が大きくなるにつれて、自分の発育や容姿が気になりだし、人と比べては理想とするところとのギャップを感じる子もでてきます。安定を欠くことに拍車をかけるのがゆとりのない生活です。中学校では1時間の授業も50分間になり、6時間の授業後には部活動があり、暗くなってから帰宅して食事とお風呂、宿題に塾、スポーツクラブに所属している子は9時過ぎまで体を使い、どの子も何かに追い回されているような毎日を過ごしています。皆が辿る道であり、バイタリティーあふれる若さが武器とはいうものの、よくがんばるなあといつも感心しています。

「なごみのとき」

 休み時間になると保健室にはたくさんの子どもたちが遊びにやって来ます。ソファーでくつろぎながら口々に言いたいことを言い、私とのおしゃべりに興じます。これが子どもたちのストレス発散にはとても大切な時間なのです。「そうか~なるほど」と聞いてやり、「大変やなあ。がんばってや!」と共感し応援する。それだけなのですが、私の前で荒(すさ)む姿を見せる子はいません。厳しく遠慮せずに、何事もズバッと指摘する私なのですが、何故か毎日やんちゃボーイとやんちゃガールが集います。
 人はやすらぎや心のなごみを求めます。家庭では自分をさらけ出すことができるから、不機嫌な姿も見せられるのでしょう。もう一度、大きな赤ちゃんをあやすようななごみの心で接してみてはいかがでしょうか。思春期は、人生最後の母の懐帰(ふところがえ)りの時期なのかもしれません。

やすこママのパワフル保健室75  思春期・・・輝くとき№31(2010.12)

「デートDV(ドメスティックバイオレンス)」

DVは、社会問題のひとつとして新聞やテレビで頻繁に取り上げられています。家庭内、夫婦間などでの暴力のことを言いますが、近頃は付き合っている恋人同士の間で増加しているようです。10代の子どもたちにも広がっているとあれば黙ってはいられません。。
 被害者はほとんどが女性です。身体的暴力だけでなく、ことばの暴力など精神的ダメージを被ることもこれに入ります。お互いの気持ちを確かめ合いながら愛情を育てはじめた時期には、相手をとても大切に扱うようですが、相手が自分を好きであることを確信し、自分のために心を尽くしてくれると自信を持つようになると、相手を自分の所有物のように扱い始めます。また、被害者側もその束縛や強引さを愛情だと勘違いし、たまに優しくされることでやはり自分にしか甘えられないのだと納得してしまうケースが見られます。児童虐待とよく似た心理状態なのでしょう。。
 先日知人から聞いた話なのですが、夜コンビニに若い男女が入ってきて、男性が立ち読みをしていると、男性の腕に手をかけていた女性が、「私お金持ってないよ。」と話しかけたそうです。男性はそれを完全に無視して漫画の本のページをめくっています。また女性が「ねえねえ、私今日お金持っていないんだって。」とまた話しかけます。それでも男性は無視を続け、そればかりか不機嫌になり彼女の手を払いのけたそうです。その知人は青少年の補導員をしているだけあって「この女性はいつもお金を払わされているのだなあ」とその関係自体にに嫌なものを感じたと話してくれました。なにも殴られたり蹴られたりの暴力を受けることばかりがデートDVではありません。DVは日常の軽い受け答えの中にもいくらだって潜んでいます。心に多少の不満とわだかまりを持ちながらも、自分さえ我慢すればこの関係を続けられるとか、いつか分かってもらえて対等に愛し合えるいい関係を築くことができるはずだとか、そんな思いで耐えている人は多いのではないでしょうか。

「対等であること」

 子どもたちは、日ごろ父親と母親が会話したり、取るに足らない掛け合いをする姿から、心温まる和みの雰囲気と一緒に自然と男女間の「対等な関係」を学んでいくのでしょう。しかし、夫婦であっても一緒にいて心地よい関係を継続させることはなかなか難しいようです。それでも自分の思いを言葉にして相手の心に伝える努力をしていくことで、少しずつでも理解し合い歩み寄ることができるはずです。対等な関係を築くためには、日頃から相手に遠慮することなく心を伝えるレッスンが必要です。

やすこママのパワフル保健室74  思春期・・・輝くとき№30(2010.11)

「草食系って??」

 近頃、「草食系男子」という言葉が流行していますが、どんな男子のことをいうのでしょうか。様々に定義されているようですが、どうも優しくおとなしく、あまり自分を主張せず、何事にも積極的に向かわないことを言っているようです。外見では判断できません。中には見るからに草食系であっても、男(おとこ)気(ぎ)な子もいるからです。
 しかし、優しくなっていく男子に比べて「肉食系女子」などということばが出現するほど強くなった女子を見るにつけ、時代の流れを感じます。
 共生教育が浸透し、男子と女子の役割りにもその境界線がなくなりました。共働きの家庭も増え、家事の分担も当たり前になりました。子育てにおいても男性の役割りが重要視され、厚生労働省が立ち上げた「イクメン(育・男性)」プロジェクトなるものも追い風となっているようです。街でベビーカーを押している父親が多くなりました。その様子からも、男性が子育てそのものを楽しむ姿勢が見て取れます。
 いい時代が来ましたね。「男は外・女は家」と言われ、子育ては女がするものだとされていた時代がうそのようです。しかし、よくよく考えて見れば、いつの時代もその時々の男たちをそのように育てて来たのは、とりもなおさず歴代の母親である女性たちなのだと私は思います。

「性差を育てよう」

 時代が変わろうとも大切にしたいのは、男性・女性の性差です。「性差」という語句をあやまってとらえてはいけませんし、長年かけてすりこまれたことを性差だと取り違えても困ります。私は、この性差というものを脳や身体や内分泌など生理学的なところから発することと考えています。女性が産む性であり、乳を飲ませて子を育むことはどんなに時代が変わろうとも普遍であり、男性が生殖に向かうための行動を起こすことをしなくなれば種の保存はできなくなってしまいます。
 「共生」というのは両性の生き方の上で大変重要なポイントです。しかし、このベースとなるのは、あくまでもお互いを思いやる「心」なのだと思います。性差と同様、「共生」ということに対しても、決してねじ曲げて考えないことが大事です。
 「草食系男子」という時代の流行(はやり)に踊らされ、思い通りにできるような弱々しい男子をちやほやする女子が増えれば、男性の「性差」自体を壊してしまうことにもなりかねない気がします。特に女性は、どんなに時代が変わっても自分の性に対するしっかりとした自覚と広い視野を持って、自分が共に生きる男(ひ)性(と)を選ばなければなりません。その女性の目こそが、これからの時代の「性差」をも育てるのだと思い、私は女子生徒を大切にまた厳しく育てています。

やすこママのパワフル保健室73  思春期・・・輝くとき№29(2010.10)

「部活動で学ぶもの」

 中学、高校時代において生活の中心と言っても過言ではないほど重きをなすのが、部活動です。様々な部に所属する子どもたち、その躍動を見ていて感じるのは青春のすばらしさでしょう。
「一生懸命」その言葉の意味がここにあります。どの種目も「勝つこと」それが目標です。しかし、たとえ一勝すらできないチームであっても、毎日毎日苦しい練習に耐え、チーム内のレギュラー争いにしのぎを削りながら頑張る姿がいとおしくて、保健室から私にできる限りのサポートをしています。試合の前日には、メンタルトレーニングをしてほしいと来室する生徒たちに、呼吸法を教えながら、他愛もないおしゃべりでリラックスをさせたり、緊張で押しつぶされそうになっている子には、アロマテラピーでやる気を起こさせたり、「きっと勝てる」「運を味方につけなさい」と気合いを入れたりと。
 部活動は精神修養です。先輩、後輩、同輩の中での人間関係に悩みながらも、折り合いをつけ、居場所を見つけていくことを学びます。天性の力の差を目の当たりにすることで、自分の努力だけではいかないことを思い知らされることもあります。それでもさらにその差を縮めようと努力する子もいれば、逆に悔しさ余って自分より実力がある子に精神的抑圧をかける子も出てきます。砂を噛むような悔しさも知り、数々の葛藤とあきらめを経験し、それを超えての努力と根性を身につけて発達途上の子どもたちは大人になっていくのでしょう。

「支える親のセオリー」

 顧問の先生方には本当に頭が下がります。中学校では、自分が経験していない種目を受け持つこともあります。にもかかわらず休日返上、外部活の先生たちは真っ黒に日焼けし、中部活の先生たちは熱中症を心配するほど熱心に指導しています。お腹にあかちゃんがいても部活動につきっきりで、私はいつもはらはらしながら「無理はしないでよ!」と声をかけています。
 親は、くたくたになって心身共に疲れ果てて帰ってきた子どもが口にした「ぐち」を聞くと、何かと心配になります。しかし、これを真っ正面から受け止める必要はありません。子どもは疲れた心を親に受け止めてもらい、自分を癒したいだけなのです。言葉少なに本音の叫びを心で聴いてやり、シャワーで汗と涙を洗い流させ、家族の笑顔とおいしいご飯で心を満たしてやってほしいのです。ゆっくりと眠ることができれば、また必ず元気になるのですから。
 支える親としてすべきことは、家庭で教えるべきことを他に任さず、この子たちを集団の中に出しても恥ずかしくない「ひと」に育てることです。共に育ててくださっている人への感謝の心も持ちながら。

やすこママのパワフル保健室72  思春期・・・輝くとき№28(2010.9)

「ないものねだり」

 ひと昔前の親たちは、戦争や災害の中でもがき苦しみ、生きるということがどんなに大変であるかを知っていました。その日に食べる物すらない生活を経験し、子どもにだけにはこんなひもじい思いをさせたくないと思ったことでしょう。世代が代わり、戦争のように命を脅かされることがなくなり、親たちは、自分たちができなかったことを子どもに・・・との思いから、ふんだんに食べ物を与えはじめました。
 「お腹一杯たべさせてやりたい。」
 それは、言い換えれば、あのときに一度でいいからお腹一杯食べたかったという親自身の叫びだったのではないでしょうか。
 食べることに不自由のない時代がくれば、次は学歴です。勉強など二の次だった時代に育った親たちは、学びたくとも学べない環境にありました。家業の手伝いや大勢の兄弟たちの世話をさせられ、それが苦痛であったとの思いから、子どもには十分な教育を受けさせてやりたいと競って高学歴を求めはじめ、否が応でもと子どもの尻を叩きはじめました。
 それでもまだその頃には、食べ物に対する勿体ないという気持ちや、勉学に対する憧れと貪欲さがあった。それがせめてもの救いであったように思います。
 いつの時代もないものねだり。人はそれを繰り返しながら生きてきたのです。

「負の連鎖」

 人間は、より良く生きるための「技」として、自分が経験できなかったことを求め、苦痛だったことを排除しようとします。しかし、時として自分の都合のいいように物事を解釈しようともします。ないものねだりには、今の状態より良いものにしていこうと高みを望む意気込みが見えますが、現代のような自分中心の意識が勝つ世の中においては、さらに人間の甘さを助長させるためだけの「技」であるように感じます。
親が子ども時代に、テストで悪い点を取るたびに叱られて嫌だった。だから自分の子どもには点数が悪くても何も言えない。子どもが世間の常識に外れたことをして他人から非難されることがあれば、自分が子ども時代に親から叱責を受けて嫌な思いをしたという記憶を引き出し、子どもを叱ることができない。食においても、好き嫌いをするなと無理にでも食べさせられた経験から、嫌いなものは食べなくていいと言う。欲しいときにお小遣いがもらえなかったから、何でも買ってやりたいとお金を与えすぎる。これでは、世代が変わるにつれ、堕落の一途を辿るばかりです。
 親たちは、自分が子ども時代に経験した「嫌だったこと」の中にある事の本質をわきまえる必要があります。何をどのように伝えるべきなのか・・・それでも嫌なことを遠慮無く指摘できるのは親だけです。

やすこママのパワフル保健室71  思春期・・・輝くとき№27(2010.8)

「死に向き合う」

 大切な人の死を経験したとき、人は戸惑い、言いようのない悲しみに暮れるものです。
 ある朝、女子生徒が保健室を訪れました。「からだの具合が悪く朝からだるいんです。」そう言った彼女の様子がいつもと違っていたので、「どうした?何かあった?」と私が聞くと、「昨日眠れなかったんです。」と彼女。病気で療養中だった大好きなおじいちゃんの様態が急変して、昨夜救急車で病院に運ばれたこと、もうすぐ命の終わりをむかえるのではないかという不安で押しつぶされそうになっていることを、目にいっぱいの涙をためながらゆっくりと話してくれました。
 死に向き合うとき、人はどう受け止めればいいのかがわからなくなり、残されることへの恐れや、いっぱいの思い出が錯綜し、頭の中が真っ白になってしまいます。私はその子の手に自分の手を重ねて、「死」について話しました。おじいちゃんは自分の人生をまっとうして今、命の終わりのときを迎えているのだということ。命の火がもしも消えたとしても、心の中に生き続けること。私は、自分の祖父や祖母を送ったときのことを形見の指輪を見せながら彼女に話して聞かせました。
「あたたかくゆったりとありがとうの気持ちを伝えて送ってあげよう」と。

「蛍」

 夏が近づく頃の宵、雨の合間を見て蛍狩りに出かけます。真っ暗で細い田んぼ道を進み、車を止めてハザードランプを点滅させると、伸びかけた稲の間や草むらの中から沸き立つように、ほのかな光が舞い始めます。ランプに呼吸を合わせるかのように小さな青い光がついたり消えたりしながら集まってきます。
 それはそれは綺麗で幻想的な光景ですが私には寂しく儚くも感じられるのです。まるで人の命が己の役目を終えて天に召されるように、ひとつの成就を思わずにはいられません。蛍の命はあまりに短く、この光が一瞬の灯火であり、命をつなぐ儀式を終えれば土に帰る宿命にあることを、知りもせずに輝いているのかと思うと、悲しくなるからです。
 人の命も蛍と同じで儚いものであることに変わりはありません。しかし、人は自分の生き方を自分で決めることができる。自分を大切に生きることもできる。何のために生まれてきたのかは誰にもわからないけれど、生まれたことにも生きたことにも必ず意味があるはずだと思いたい。その意味を探しながら、確かな足跡を刻んで生きていきたいと思っています。
 誰にでも、いつか必ず命の終わりの日が来ます。そのときによく生きたと自分で自分を褒めてやれるように。

やすこママのパワフル保健室70  思春期・・・輝くとき№26(2010.7)

「運動経験をさせよう!」

 何をもって体力と言うか・・・大変むずかしい基準です。病気になりにくいことも、疾病に罹ってもすぐに回復することも体力なのでしょうし、激しい運動に耐えうることも体力でしょう。体力をつけることは、一朝一夕にできることではありません。長い年月をかけて自分の体に負荷をかけながら、成長とともに少しずつできることが増えていくのです。
 日常の生活の中で意識せずに付いていく体力こそを大切にしなければなりません。子どもがよちよち歩くようになれば、外へ散歩に出して太陽の光を浴びる。紫外線が悪者のように言われる時代ですが、適度に浴びることは骨の形成のためにも大切なことでしょう。遊びたい盛りには遊具のある公園に連れ出し、親が一緒に走って遊びます。体を動かすことが心地よく、運動による発散が心身を爽快にすることを早くから経験させてやりたいものです。テレビやゲームに子守をさせてしまい、運動経験の基礎となる大切な時期を逃さないようにしなければなりません。
 スキャモンの発育曲線にあるように、運動機能には伸びる時期というものがあります。神経系が4、5歳時までに著しく発達するのを見てもわかるように、難しいことは小さなうちにやらせることです。プレゴールデンエイジと呼ばれる5~8歳頃には、集団の中での遊びをとおして瞬発力がつき始めます。次に来る9~12歳のゴールデンエイジは、動作の習得にはすばらしい時期であり、体力も大きく伸びると言われています。この時期にはひとつのスポーツだけに固執するよりも、少年野球をやらせているなら、オフの季節にはスイミングをといったように様々な動きを経験させることに大きく意味があるのです。

「からだをこわさせないこと」

 小学校高学年までに培われた体力と運動機能を土台にして、中学の時期には持久力が、高校では筋力がつきます。また、この頃には、より技能を高めることが目標となり、そうなれば当然のことながら勝ちをねらうことが先行します。しかし、この場合も発育の時期を考えずに無理な運動を強いれば、体に弊害が出ないわけがありません。
 個人差はありますが、中学前期のまだ小学生の延長のような体の子に、過度な筋肉トレーニングを行えば、骨への負担が大きくなり、腰や膝を痛めてしまうことも出てきます。また、中学後期から高校にかけては、右利きであれば右半身を、左利きであれば左半身ばかりを使う種目の場合、使う方の筋肉ばかりが発育し、脊柱に側わん傾向をみることもあります。生涯スポーツの視点からも、より高い技能を持った一流の選手を育成するためにも、何より大事なのは体をこわさせないことです。

やすこママのパワフル保健室69  思春期・・・輝くとき№25(2010.6)

「ひとのものさし 自分のものさし」

 子どもたちは、生まれおちた時に与えられた環境と出会ったひとによって、「自分」という人間の根を張りはじめます。遺伝子に組み込まれた本来の「自分」と融合させながら、たったひとりだけの自分に育っていくのだと思います。私はいつも話します。「一人一人顔が違うように、考え方も考えていることも違ってあたりまえ」「あなたならではの思いがあっていいのよ」と。
 この頃の子どもたちは、ともすると自分がどうしたいのかよりも、人からどう思われているのかの方が気になります。自分はこれがいいと思うのに、ごく少数であってもその思いに反する言葉を耳にすると、心の中の「自分」というものが揺らぎます。人に合わせようとするあまり、自分を見失い、人のことが気になって気になって自分の心が壊れそうになる子もいます。しかしこれは、アイデンティティー形成のための大切な成長過程でもあるのです。
 確かに自分のことを周りの人がどう見ているのかを察する力も必要です。それは一般的に常識とされる範囲から著しくはみ出すことなく生きる目安にはなるでしょうから。だからといって他人のものさしで自分を計る必要はないのです。自分は自分、人は人。開き直るのではなく自己を肯定し、謙虚で幅のある自分のものさしを持つことができるようになるといいなと思います。

「自分に向き合おう」

子どもたちは、「自分」の心の中を覗くことを避けているように感じられます。友だちの言動で傷ついたり苦しんだりしながらも、自分を殺して無理をして人に合わせ、居場所を求めます。人から、からかわれたりこすられたりしていても、みんなの前では笑ってその場に馴染んでいるように取り繕っている子もいます。
「本当の自分はそんなんじゃない。けれどみんなからは浮きたくない」
しかし、一見つらく思えるこのような葛藤こそが自分という人間を形成していく上で、何よりのレッスンになるのだと私は考えています。現代、子どもたちはこの葛藤すら面倒に感じ、自分の心に向き合うことから逃げようとします。親たちも、目先のことに翻弄され、子どもの世界にまで神経を尖らせる姿が見られます。過剰な保護が子どもの心の成長の妨げになっていることにすら気づかないこともあります。
思春期は、自分という人間がいかなるものなのか、なぜこの世の中に存在するのかを思い悩みながら、生きる価値を探して歩く時期です。たくさん悩んで、答えの出ないことを考えあぐんで、それでも生きている自分に向き合わずにはいられない。
 どうかそんなかけがえのない自分育ての「とき」をゆっくりと大切に生きることをさせてみようではありませんか。

やすこママのパワフル保健室68  思春期・・・輝くとき№24(2010.5)

「桜から若葉へ」

 ひとつずつ学年が進み、ちょっと前まで1年生だった子どもたちが「先輩!」と呼ばれる新たな春がやってきました。この季節には、いつも自然の息吹とまた学校の1年が始まるエネルギーを感じます。
 中学の3年間はあっという間に過ぎてしまいます。しかし、この3年間は、自分という人間を創るために大変重要な時期でもあります。「心 技 体」どれに関しても、人生のうちで一番育つときであると感じています。
 子どもたちは、自分の力で伸びようとします。あらゆる方向に伸ばす枝と若葉を、親や教師や周りの大人、地域で関わる人たちが剪定し、また水をやり、「まっすぐに伸びてくれること」を祈ります。その祈りとはうらはらに、彼らはいろんなことをやってくれます。それはやんちゃと言うにも満たないことから、人生を変えてしまう危険性をも感じることまで、日々様々に。
 言いようのない想いや苛立ちを、人に向けられない優しい子は、自らを傷つける行為にはしることもあります。この時期誰もがあたりまえであるのに、自己中心性の抜けきらない自分を防御し、そんな自分を正当化するための理由をつけて殻を被る子もいます。しかし、これらの苦しみや辛さも、乗り越えることができたならば、個々の発達の中での大切な経験となります。
 私には、そのあがきでさえも二度と帰らぬ思春期の宝物に思えます。

「苦しむことの意味」

 辛いことから逃げようとする子が増えました。子どもに辛さを味あわせたくない親が増えました。一生のうちで辛さを経験せずに大人になった人などひとりもいないでしょう。誰だって楽をしていい思いがしたい。しかし、そうはいかないのが人生です。 私自身、今振り返ってみても、うまくいかないことや苦しく辛いことのほうが、いいことよりもずっと多かった気がします。けれど、もがき苦しんだ後に何かしらご褒美のようにいいことがある。その少しのいいことに素直に心を躍らせ、またいいことが起こるように「きっとうまくいく」「いつかこの雲が晴れる日がくる」と頑張る前向きな気持ちが人生を後押しするのだと信じています。
 桜の花には寒の戻り、葉桜の季節に雨の降らない年もあるように、苦しみに耐えることが幹を強くし来年の春にまた誇らしげに花を咲かせて、愛でる人の心を和ませるのです。
 どうか辛さから逃げないで。痛みに負けないで。若いあなたたちには、遠い将来輝く未来が待っているのだから。そして私たち大人は、いつかこの子らの糧となるであろう痛みを奪うのではなく、乗り越えるための支えになろうではありませんか。

やすこママのパワフル保健室67  思春期・・・輝くとき№23(2010.4)

「身体計測と保健指導」

 中学校では、小学校に比べて年間の身体計測の機会も少なく、思うように保健指導の時間が取れない学校も多いのではないでしょうか。私の学校では、4月の定期健康診断と10月と2月の年3回の身体計測のの後必ず、養護教諭が行う保健指導の時間を設定しています。
 昨年度、本校に赴任した時、4月の身体計測は2時間を使って全校一斉に行い、生徒はグループごとに健康カードを持って身長・体重・座高の計測と視力・聴力検査の会場を回っていました。しかし、これでは年度当初の保健関係のオリエンテーションをする機会もありません。夏休み前の性に関する「いのちの学習」は各学年の学年集会で指導し、10月の身体計測からは学級活動の時間を当て、担任が付き添える形に組んでいただきました。
 この方法は利点が多く、一番生徒をよく把握している学級担任が計測値を記入することで体の変化に気づくことができるだけでなく、そこから交友関係や精神状態にも目を向けることができます。髪型や服装、着こなしに関しての指導も行えます。保健指導を後の学活に活かすこともできます。50分間の中で、1クラス30人ほどの計測を15分で終え、後の35分を保健指導の時間とします。養護教諭が保健分野の専門家として授業をする大切な時間です。

「栄養教諭とティームティーチング」

 別の中学校に席を置いて本校を兼務している栄養教諭と一緒に、「朝食の大切さと質のよい睡眠」についての保健指導を行いました。栄養教諭の作ったパワーポイントを提示し、私との掛け合いで授業を進めていきました。毎日午前中3時間、すべてのクラスを対象に一週間のロングラン!!
 ずっと以前から、いつか一緒に指導したいねとお互いが想い描いていた夢が叶いました。指導を重ねるごとに息がぴったり合ってきて、楽しくてうれしくて。子どもたちの体をつくるために、心を育むために、そしてよい生活習慣がこの子たちの何十年後の健康を守ることになると思うと、2人の指導にも自然と力が入ります。一週間があっという間に過ぎてしまいました。
学校における健康教育のひとつの分野である「食教育」を充実させるためには、栄養教諭や学校栄養職員の力が不可欠です。、養護教諭が学校保健に関してそうであるように、栄養教諭は食と栄養の専門家です。その2人が力を合わせて、よりよい授業を作り上げていくことができれば、教育効果は何倍にもなるはずです。
 気負わずできることから。何よりも2人がお互いに楽しみながら。私の学校にも栄養教諭が常勤してくれることを心から希望します。子どものために一緒にがんばれる日が来ること、それが私の新たな夢です。

やすこママのパワフル保健室66  思春期・・・輝くとき№22(2010.3)

「春待ち人」

 中学3年生は、今まさに自分の決めた道に新たな一歩を踏み出そうとしています。
 自分の夢を叶えるために敢えて険しい道を選ぶ子、まず高校へ進学することを目標にして、高校の3年間で自分の本当にやりたいことを見つけたいと考えている子、様々な想いを持って飛び立とうとしています。
 子どもたちは、親の望みや自分の希望と、成績とをすりあわせ、進路を決定していきます。皆が希望どおりにいけばよいのでしょうが、中には思うようにならないこともあるわけです。3年生の学年主任、進路指導主事、各クラスの担任と無担任として日日学年を支えてくださっている先生方は、心を砕いてサポートしています。
 進路決定の時期になると、私の保健室にも3年生が入れ替わり立ち替わり進路の相談に訪れます。十分な進路指導がされているのに何故保健室なのか・・・。心の癒やしを求めに来るのでしょう。自分が決めかけている道に間違いがないか、また、自分では決められなくて誰かのひとことが欲しいとか、つきつけられた現実に押しつぶされそうになっているなど、たくさんの不安と心の揺れをぶつけに私のところにやって来るのです。
 そんなとき、私は今ある自分、ひとりの人間として、教師として、母親として精一杯耳を傾けます。現時点で目先のことしか見ていない子どもたちの目を、遠い将来に向けさせることが私の進路指導です。夢を大切にしながら、その夢を現実のものとしていくためのプロセスについて話します。生きていくことの厳しさや、世間一般の情勢など、甘い考えでいたってそうは問屋が卸さないことなども含めて。
 保健室へ相談に来た子のことについて、私は、3年生の先生方とよく相談し、三者懇談での保護者の意向も収集します。その上で高校に勤めている友だちから情報をもらうこともします。その子の一生に関わることですから、納得のいく選択ができるようにと願い、ここに私が居ることで何かできることはないかと考え相対しています。
 美容師になるためにはどの道に進んだほうがいいのだろうと訪れる子もいます。そんなとき私は、自分の行っている美容院に聞きに行きます。美容師になるためのスタートラインにつくためには、高校を卒業して専門学校に進学するほうがよいのか、早くから専門の学校を選ぶほうがいいのか。そして一生懸命本人と一緒に考えます。私の脳裏にいつか「カリスマ美容師」となったその子の姿を想い浮かべながら。
これから先、夢は何度も変わっていくかもしれない。たとえ打ち砕かれることがあっても、また夢を見ることのできるみんなでいて欲しいと心から願いながら、この子等の心に寄り添いたいと思っています。